場所は秋田県・・・東北自動車道の十和田ICから東北(時計で2時)の方角へ、直線距離で約4Km地点です。
敷地の一部が、県道65号線によって分断されています。
たぶん遺跡が発見される前に、道路が出来ちゃった・と言うことでしょう。
ペルーのナスカの地上絵でも、
広大な敷地の真ん中を何故かパンアメリカンハイウェイが走っていましたが、これもたぶんたいした調査もしないで道路が出来ちゃった典型でしょう。
<大湯ストーンサークル館>
この種の建物は暗っぽい物が多いのに、ここは以外に明るい・と中へ入った時感じました。

広大な敷地を一望する案内図です。

団体旅行と違って僕ら夫婦の旅行には、常に《ネグレクトする》という項目が付いて回ります。
だから計画の一部を《ネグレクト》したからと言って、残念とは思いません。
常に《これでよかった》と考えて、旅を終わることにしています。
今回もこの案内図を見たとき、足に疲労が蓄積してきた妻の事を考えると、見る場所を選別する必要があるなと感じました。
日時計かな・・・これは展示館の入り口のすぐ近くにありました。

《デモンストレーション用に造ったのかも知れない》・と直感したけど、詳しく追求はしませんでした。
この場所から林を抜けて前に進むと、発掘保存された遺跡に出ます。

お祭り広場でしょうか・?

中央とその外側に、
石――以外だったと言うか、結構《かどばった石》・山石かも――が、
2重のサークル状に並べられています。
この並べた石が描くサークルの、内側のエリアを犯さないように建物が建っています。
これはきっと、ここが神聖なところだったのでしょう・・・なんて感じました。
集落かな・?

最初は集落かなと思ったのですが、
小学校の運動会のとき、トラックの外側に建てられるテントみたい・・・と考えたほうが楽しい。
やっぱり集落かな・?

でも・・・
泌尿器に若干障害を持っている《ひろさん》こと《おーじ》さまは、何かと言うとすぐトイレのことが気に掛かります。
もし集落と考えると、それぞれの家にトイレらしきものは無かったのかなあ・と心配しちゃいました。
・・・この時代は広々とした野原の至る所が、トイレだった・かも・とは、このとき考えませんでした・・・
<五本柱建物跡>
復元されたこれが、縄文時代の材木を使ったのでないことは承知です。

この時代にもう柱を建てた建物があったのですね
・・・なんて学生時代に勉強したはずですが、《ひろさん》の容量不足のメモリーでは消去されちゃったのかも・・・
中央に比べて周囲の短いのは、壁を構成した柱だと推測出来ます。
これを見ると、この時代ではまだ《ホゾの加工》というところまで建築技術は進んでいなかったようですね。
でも、これが住宅だったのか神殿のようなものであったのかは別にして、この太い材木をどのように切断していたのか
――これは現代のチェーンソーで加工したのでしょうけど――が、まことに興味深いです。
建物(柱と屋根だけ)

角度を換えて見ました。

柱と桁、桁と梁、梁と登り梁などの様子が見られます。
これが《縄文時代の仕口を再現した》のか、
復旧するに際して《現代人の技法が入っちゃった》のか、いずれか分かりません。
もし《縄文時代の仕口を再現した》のであれば、
すでに《ひかる技術》
――交差するそれぞれの材を、その部分を削って馴染ませる技術――があったことになります。
・・・驚きです・・・
環状列石

ここの石は、川の流れで磨かれた自然石に見えます。
中央の縦石は一石ですが、夫婦でわが子をあやしているようにも見えるから不思議。

もしもこれが、意図的に配石したのだとすれば、この集落では《家族を祭りの中心にした》ということになる
・・・なんていうのは《ひろさん》の新学説・だぞ・・・
・・・考えすぎか・・・
およそ4000年前に、この場所で営まれていた縄文人達の生活は、この花のように長閑であったかもね。

・・・花の名こそ知りませんが、何となく感じました・・・