何故《御薬園》と言われるか・という事は後回しで、松平家の別荘だったと言うだけで
「何かある・・・」と訪れてみる気になりました。
場所は会津若松の鶴ケ城から約2Km東北(14:00時)の方角に位置しています。
後回しにした事ですが
――寛文10年(1670)2代目藩主正経(まさつね)が、貧しい農民を疫病から救い病気の予防や治療など施したいとの願いから、薬草栽培を試みた。
――庭は昭和7年に、国の名勝に指定を受けた後に、徳川中期の(元禄9年)築造と判明した。
・・・などの事を知りました。
園内の案内看板です。
最初に目に入ったのがこの蓮田でした。
この時点では《御薬園》という名称から、てっきり薬草園――園内は全て薬草だと言う先入感を持っていました――なので
《これが薬草だったのか》・という驚きでした。
でも蓮が薬草なのかという事は、いまだに知りません。
と言うわけで、薬と蓮が僕の中では繋がりません・・・それはそれで良としています。
タチアオイの表示板がありました。
「これも薬かな」・くらいの感覚で受け止めました。
兎に角私にとっては、全く準備無しの状態でしたので《何故》と言う事ばかりです。
<秩父宮 妃殿下胸像>
この妃殿下の胸像が何故ここにあるのか・と言うのもその一つでした。
その疑問は、この銅版に刻された文言が解消してくれました。
要約すると、旧会津藩主 松平容保(かたもり)(1835~1893)の4男 恒雄 氏の長女で、昭和3年に秩父宮家に御輿入れされた・・・という事です。
その妃殿下に縁(ゆかり)のある重陽閣(ちょうようかく)
<重陽閣外観>
ここに立ったばかりの時、正直なところ少し違和感がありました。
もっと古い建築物が、残されているのかと想像していた為かも知れません。
現在2Fがティールームになっていて、妃殿下に縁(ゆかり)のお茶がいただけるようになっています・・・が上がっては見ましたけど私達は頂きませんでした。
広間の外側の開口部は《掃きだし窓》で、内側に手摺がありました。
でもそれは、新しいものでした。
この時代は人が《落ちる》・ということを、考えていなかったようです・・・使う人の自己責任だったのですね。
ちなみにどんな縁かと言うと
――秩父宮家のご家族が会津へ来たとき宿泊された《東山温泉新瀧旅館別館》だったと言うことで、昭和48年にここに移築されたもの。
妃殿下のお誕生日9月9日にちなんで、妃殿下ご自身が命名された。――と・・・ネットの情報で知って《重陽》の意味を納得しました。
登り始めが、珍しい。
登り始めから終わりまでに90度曲がっているから、曲がり階段と言うのでしょう。
特に登り始めが美しい。
現在の木造建築(特に住宅)ではあまり考えられない登り初めです。
柔らかい曲線が描き出されています。
お茶屋御殿を池の対岸(女滝方面)から見ています。
小雨が落とす雨滴が、形ガラスのカスミ模様を思わせる鈍い光沢で、池の水面を覆っています。
中ノ島――ここでは亀島と呼ばれている――に建つ楽寿亭です。
建物自体は、今流で言えばバラックです。
でもこのバラックで、茶を飲みながらこの景色を愛でる心の在りようは《極上の贅》だ・と言われなくとも感じます。
・・・筋交いもなくよく持っているな・・・
楽寿亭への渡り橋
この橋が、蓬莱島――案内板では亀島となっているけど、この文中の為に僕が勝手に命名した――へ導く《心の架け橋》に見えます。
昔の人はこの橋を渡ることで、別世界へワープしたのでしょう。
一軒の狭い敷地と小さな住宅の中に、こんな贅沢を演出できたら素晴らしい・とつくづく思いました。
・・・クライアントには理解されない・かもね・・・
生々しい戦争の傷跡です。
戊辰戦争と言う人の争いが無ければ、楽園であるこの蓬莱島に、土足で踏み込む無粋な事は起こらなかったでしょう・・・これも人間世界の現実でしょうか。
楽寿亭のいわれが書かれています。
藩主や重役たちが納涼に使うだけだった・のなら、蓬莱島として別世界であり続けたはずです。
でも密議に使うようになったが故に、仙人の世界からこの世に引き戻されてしまったのですね・・・
この建物も筋交が見当たりません。
< お茶屋御殿と呼ばれています>
地震や風害のことを考えなかった時代の建物とはいえ、今尚立派に建ち続けているのには頭が下がりました。