麟閣と会津若松城について紹介したので、やっぱり飯盛山についても感じたことを少し書いてみます。
ここにたどり着いたときこの看板が目に入りました。
<看板>
「高速で来たけど証明するものがない・・・」とチケット売り場で聞いてみました。
「自己申告です」という返事が返ってきました。
「高速で来ました」・と改めて言うと、気持ちよく値引きしてくれました。
・・・悪用する奴が出ないことを祈る・・・
明治新政府から《徳川幕府側だ》と見られた会津藩との権力闘争だ・と簡単に片付けられない戦いの間で、犠牲になった若者たちの墓です。
<少年武士の墓>
本当は白虎隊のことを知らないまま――何となく――知ったかぶりで、ここを訪ねました。
でも時の政府と戦って、散って行った若者たちの凄まじいエネルギーが、今尚この森に充満しているようです。
昭和の時代に時の政府に《安保反対》とか叫んで、歴史の一頁に足跡を残して来た若者たちとは、同じ若者ですが何かが違うと感じました。
たぶん――《白虎隊―Wikipedia》によると――会津藩が、16才~17才の武家男子によって構成した343名の組織・・・という事が基本的な違いでしょう。
・・・これを知らないでここへ来たのですが、死者の凄まじい《念》とでも言うのを感じた事は事実です・・・
白虎隊士の墓です。
<墓全体>
向って正面奥は戦死した白虎隊員31士の墓です。
画面左側は、士中二番隊42士のうち、この飯盛山で自刃した20士のうち19士の墓が祭られています。
20名の若い隊士が刺し違えて自決した場所です。
<白虎隊慰霊碑>
これは、白虎隊の若者たちが互いに刺し違えた現場から見た、昭和40年に再建された現在の雨中に霞む若松城です。
<アンテナと重なって見える雨中の若松城>
戦争に巻き込まれたお城は、明治7年に新政府によって取り壊されてしまいました・・・まことに残念。
.
ここは飯沼貞吉(後貞雄と改名)隊士の墓です。
<飯沼墓>
他の19名の隊士とは別の場所です。
「なんでカナ・・・」その答えは、墓の右側に建てられた看板にありました。
これはお墓のUPです。
<飯沼貞雄の墓>
皆と一緒に自決したのですが、飯沼隊士だけが助けられて蘇生したと書かれています。
<蘇生者の表示板>
後、逓信省で活躍したとあります。
また彼が蘇生したことによって、白虎隊の凄まじい生き様が後世に伝えられることになったとも書かれています。
いじめによって若い命を落とす事件が絶えないこの頃ですが、
「生きて帰るな」と諭されて家を出た少年にとっては、その後の人生はさぞや辛かったであろうと・想像を絶する想いが一入でした。
・・・その後77歳まで天寿を全うしました。
また、逓信省の通信技師として、日本の電信電話の発展に大いに貢献しました。
その生き様は正に感動です・・・