「寂光院」

寂光院を見ようと思い立ったのは、極々単純な動機でありました。

そもそも寂光院について勉強したわけでもないので、どんなところかも知らなかったのです。
鞍馬山へは3度ほど行ったし、三千院も見たし、地図で見ると後は寂光院かな・程度の何とも不遜な思考回路が私を支配していたのです。

建礼門院階段

「寂光院」



 現地に着いて最初に、この手の込んだ石段に目を引かれました。
ここは寂光院ではなく建礼門院の霊廟の入り口だったのですが、寂光院だけでなく建礼門院が良く解っていない・という誠にお粗末なスタートでありました。

「素晴らしい階段が見られたんだ、ま、良いか・」という妥協をすぐしちゃったのです。




寂光院看板

「寂光院」



次に目に飛び込んできたのがこの看板です。




石畳

「寂光院」



山門を潜って私達を迎えてくれたのはこの石畳です。

自然石に近い石を並べた素朴な通路を歩き出した時、イタリアのポンペイの町の石畳が頭に浮かびました。


歴史を遡るとその時代にもっとも相応しいい栄華の結晶を見ることが出来る訳ですが、国が違うのに同じように自然石を敷き込んだ石畳があったと言う現実を見せられた気分でした。


蛇足:ポンペイの街
こちらが、ベスビオ山の噴火で埋まってしまった街ですが、発掘されてレベルの高い文化都市を築いていた当時の姿を現したポンペイの街です。
写真は石畳で舗装されたメイン道路です。

「寂光院」






「寂光院」








「寂光院」



茶室(孤雲)と池




置き灯篭

「寂光院」



秀吉が贈った南蛮鉄の灯篭だというのですが、この灯篭の存在感を僕はあまり感じなかったです(趣味が違うだけだったのかも・・・)

平家物語の有名な書き出しが、何故か頭を過ぎったのがこの時でした。




庭園

「寂光院」



平家物語当時のままの庭。
四方正面の庭だといわれているけど、何処か寂しさを感じる庭でありました。




千年姫小松

「寂光院」



これまた平家物語のなかで歌われている由緒あるものですが、火災の影響を受けて2004年5月に枯死しちゃった・というのです。今は、その幹を残しているに過ぎません。





姫小松縁起

「寂光院」



千年の姫小松由来です。




諸行無常の鐘

「寂光院」



「諸行無常の鐘」と書かれた板が張り付けてありました。

「エッ・これが平家物語の冒頭に書かれているあの鐘か・?」
「鐘突き堂は古くは見えないが、鐘はどうなの・?」
「平家物語を書いた人は、この鐘の音を聞いていたのだろうか・?」
「たぶん、後世のものだろう・な?」
「判らない・・・」

・・・俄かに信じられず、さまざまなことが驚きと共に頭を駆け巡りました。


本堂

「寂光院」



 2000年5月に、不慮の火災で消失したので、新たに建てられた本堂です。

古いお堂を知らないので何ともいえないのですが、〈時間の積み重ね〉を感じない所為か僕のどこかが白々しく反応していました。




本堂

「寂光院」



 源平合戦で亡くなった我が子(安徳天皇)の菩提を弔いながらここで終生を過ごした建礼門院徳子=安徳天皇の母=高倉天皇の皇后=平清盛の息女・・・の隠棲した尼寺としては――気の毒なほど寂しい造であるな――と言うのが僕の第一インスピレーションでしたが、これはたぶん〈時間の積み重ね〉が不足していたからだ・・・きっと。




御本尊

「寂光院」



 財団法人美術院によって復元された本尊〈六万体地蔵菩薩立像〉正面




御本尊

「寂光院」



財団法人美術院によって復元された本尊〈六万体地蔵菩薩立像〉側面




祇園精舎

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰(ひっすい)の理を表す。
奢(おご)れる者久からず、ただ春の夜の夢の如し。
猛(たけ)き人もついには滅びぬ。
偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ。

・・・千年の時空を超えてなお、現在に通じているものを強く感じずにはいられないひと時でありました。


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